イブニングカレー
今日は、特別な仕事があり、いつも通りの時間には家に帰れないことが分かっていた。
神保町、午後7時。

駅周辺は家路を急ぐ人、遊びに行く人で賑わっている、
一日を2分割するとすれば、後半の始まり、、街はそんな気分につつまれているようだった。
季節はもう初夏、外出がちな営業は皆、上着を片手に早足で歩く。
俺もまた、客先との交渉の成果とともに、次の戦略を練らねばならない。一刻も早く帰社すべきなのか?
「さて、どうしようかな」
ここで、できる営業マンは、差が付くのだ。
もう一度、スタートダッシュをかけなければならない。
考えるまでもなかった。「イブニングカレー」だ。

c0024561_19124719.jpgもう賢明なる読者はお気づきのように「神保町、カレー」と言えば共栄堂である。
入社一年目、コピー機の営業をやっていた俺は、外回り中に神保町に来ると、必ずここへ立ち寄っていた。

すこし古めかしい黄色のメニューには、「スマトラカレー」の言われが書いてあり、当時は、ここのカレーを貪りながら、遠いインドへの想いをつのらせたものだった。
(数年後、ボンベイ(ムンバイ)でカレーとスイカの食べ過ぎで激しい下痢にあい、死ぬ思いをすることになるとは想像できなかった。)

共栄堂は地下一階にある。

螺旋階段を下りていくと、茶色のソファーがある、いつもの店内が見えてくる。
昼間は並ぶこの店も、この時間だとなんとか座れるようだ。
自動ドアから店内に入ると、いつもの親父が俺を席へ案内してくれる。
メニューは見るまでもないのだが、ここは念のため目を通す。
何も変わっていない。
そして、俺の注文もまた昔から少しも変わらない。。
「ポーク、両方大盛りね」

説明するまでもないが、両方とは「ごはん」と「ルー」の両方大盛りである。
ポークは最も安いメニュー、これに両方の大盛りで800円+200円+100円で
1100円である。
今日は、このために昼飯も抜いた。
家を買おうとしているものにとって、ここらへんは堅実な行動である。
自分にしては良く耐えたと思う。

感慨に耽っていると、コーンスープが運ばれてきた。
このスープはくせ者である。
まず、これを先に飲まなくてはならない。
もし、カレーを食べた後にこれを飲んだりすると、もともとの薄味スープが
よりいっそう薄く感じられ
尚且つ、舌には熱い。
夏には間違えてはならない手順の一つである。
ゆっくりとスープをのみながら、黄色の店内に目をやり、しばし物思いに耽る。
「焼きリンゴ500円か。。」

この店のもう一つの売りは「焼きリンゴ」である。
これだけ、何度もこの店に来ているのに、いつも手が出ない逸品である。
昔から、
「そんな嗜好品を注文するなら、後で立ち食いうどんでも食おう。」
そういう思考回路の持ち主の俺であった。
昔に比べれば、給与も多少は上がっているのだが、やはり手がでない。
「いつか、もう少し偉くなったら。。」
そう思い、断念した。

昔、こんなおとぎばなしを聞いたことがある。
ある夫婦がひょんなことから、人生で一回だけ何でも叶う魔法を使える権利を手にした。
しかし、彼らは勤勉且つ堅実であり、何か欲しいものがあったりすると
「ここは、もうちょっとだけ頑張って、魔法は次のことで使いましょう。」
そういいながら、コツコツ努力し、最後はほとんど全てを努力で達成した。
二人で「魔法は何に使おうかねえ。。」そう言いながら、幸せに死んでいった、
人間はそんな風に努力をするものである。
目の前が少しだけ滲んだ。
いつか焼きリンゴをたべよう。そう思った。

c0024561_19121431.jpgしばらくして、カレーが運ばれてきた。
アラジンと魔法のランプのような容器に入っているカレー。
横に平べったいカレーをかけるスプーンと、縦に長いカレーを食べるスプーン。
様式美もここに極まれり、、と言ったところだが、
実際はそんなことを考えたわけではなく、すぐに食べ始めた。

「うまい、みかちゃんは、ここのカレーを小麦粉カレーと馬鹿にしているが、
 やはり、うまいものはうまい。」
皿の半分くらい食べ終わるまで、その時の記憶は欠如している。
ドアが開く音がして、やっと我に返った俺は、新しい客が入ってきたことに気がついた。
「?」
一見して、就職活動中のまじめそうな女子大生、一人であった。
地味な紺のスーツを着ている。
就職活動のため、髪の色を黒に染め直しているので、そう見えるのかも知れなかったが、
それでも、まじめな雰囲気が伝わってきた。

「大変だよなあ。。しかし、よほど腹が減ったのかな。女の子一人で共栄堂に入ってくるなんて。」
今日一日がんばって活動したんだろう、そして成果が芳しくなかったんだろう。
バブル時代に圧倒的売り手市場で就職した俺は、急に彼女がかわいそうに見えてきた。
就職できなかったら、バイトとかでつつましく暮らしていくのかな。。
でも、バブル時代と違って、洋服も最近は安いし、親元にいればまあ、暮らしていけるか。。
あの時と違って、今はじゃらじゃら付けるのは流行らないしなあ。。
幸せの姿はひとそれぞれである。人生いろいろ。
そう思い直し、残りのカレーを口に運んだ。
さっきより、すこし苦みが増した気がした。

その時、予想もしなかった会話が聞こえた。
「わかりました、”エビ”でよろしいですね?」
「エビ?」
すぐに、俺はメニューを手にとって確かめた。
1200円。
もう一回、俺は顔を上げて彼女の顔を見た。
彼女はいつの間にか足を組み、気のせいかふんぞり返っていた。
突然の怒りが体中に、充満した。
そして俺は、心の中でつぶやきながら、一気に残りのカレーをかき込み始めた。

「何故、昼飯を抜いて、両方大盛りを楽しみにしている俺が1100円で、就職活動中の学生が1200円なんだ???」
怒った俺は目の前にあった、無料のらっきょと福神漬けを大量に皿に盛り、残りのカレーを一気に飯の上にかけた。
食べ終わって、水を飲み干した俺はひとつの結論に達していた。

「エビを食うような奴は落ちる」

口を拭き、顔を上げてもう一度彼女の顔を見ようとした。
場合によっては、説教を食らわす用意さえあった。
「世の中はそんなものじゃない」
。。しかし。。。そこには、もう誰もいなかった。。
残された席には、まだ俺が一度も食べたことのないエビカレーが半分以上残されており、
アラジンと魔法のランプが、鈍く光りながら、俺を見つめていた。。



螺旋階段を上がると、そこはもう夜の神保町。
街は人々とネオンで覆われていた。
異国の味、スマトラカレーと人生の不思議に思いを馳せながら、
俺もまた、夜の街へ溶け込んでいった。。。


モーニングカレーもよろしく。
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by nekomekuri | 2003-06-01 19:09 | ねこかわいがり
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